絵で見る創意くふう事典  》 第13章 お客様  》 K市場の変化に対オプスる
 
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お客様‐1312 K市場の変化に対応する BACK

 このページの掲載事例→                     ●131201 有限の鉱業から無限の工業へ転換を図る  
 ●131202 単身世帯の増加に対応してワンルームマンションを建てる
 ●131203 茶袋にグラビア印刷とアルミラミネートを施す
 ●131204 牛の薬品製造から動物医薬全体に進出する
 ●131205 商都・大阪に「紅忠」を出店する
 
【131201】有限の鉱業から無限の工業へ転換を図る  


1897(明治30)年、山口県宇部で沖の山炭鉱を興した渡辺祐策(わたなべすけさく)は、10年に及ぶ炭鉱開発の末にようやく良質の石炭層に辿りつき、大量の石炭を掘り当て、宇部の石炭王と呼ばれた人である。

■しかし、渡辺祐策の生活は至って質素で、石炭の利益のほとんどを、火力発電所建設、鉄道敷設、上水道整備、築港、病院や学校の建設など地域のインフラ整備に当てたといわれる。さらにこの人が偉大だったのは、石炭を掘り尽くした後の時代のことにまで思いを巡らし、次々と手を打ってきたことである。

1914(大正3)年には「宇部新川鉄工所」を設立。炭鉱で使用する機械をこの会社で修理、メンテナンスし、さらに自社製作できるようにした。1923(大正12)年には「宇部セメント製造」を起こし、美祢の石灰山から石灰を採取し、石炭から出るボタや灰も併せて利用してセメントを作った。1933(昭和8)年には「宇部窒素工業」を設立。この会社で黒い石炭から作り出された最初の白い化学肥料、硫安を確認し、その直後に70歳で永眠した。

1942(昭和17)年、沖ノ山炭鉱、宇部鉄工所、宇部セメント製造、宇部窒素工業の4社は合併して宇部興産となった。1967(昭和42)年に宇部炭鉱は閉山したが、現在の宇部は化学工業のまちとして繁栄を続けている。 

取材先 宇部市ふるさとコンパニオンの会
取材  2018/12/14
掲載  リーダーシップ201/02
本文   watanabe-ou.pdf へのリンク 

 
沖の山炭鉱
 
【131202】 単身者の増加に対応してワンルームマンションを建てる   

■スーパーホテルの山本梁介会長は大阪船場の繊維製品販売業を家業とする家に生まれ、労使紛争の末にその家業をたたんで、不動産賃貸業を始めた。

■事業は順調に滑り出したが、大手と対等に渡り合っていくには戦略が必要になる。そう考えているとき、「ロサンゼルスで単身世帯が、ファミリー世帯が50%を割りそう」という英字新聞の記事を読み、日本でも単身世帯が増えていくに違いないと考えて、ワンルームマンションの事業を始めた。1969年のことである。

■ワンルームマンションの需要が増え、全国展開を図ろうとしたとき、遠隔地のマンションを管理するには、それぞれの地域に支店をつくらねばならなくなるという問題に突き当たった。だが、その代わりにビジネスホテルを作り、そこにスタッフを常駐させれば新たに支店を作る必要がなくなる。こうして全国各地にスーパーホテルが誕生したという。

取材先 スーパーホテル
取材  2010/08/30
掲載  リーダーシップ2010/11
本文 superhotel.pdf へのリンク


スーパーホテルの外観と内部
 
【131203】 茶袋にグラビア印刷とアルミラミネートを施す    


■葛g村(東京都品川区)はお茶を入れる袋をひとつひとつ手張りする家内工業だった。前社長、吉村正雄氏の時代に、袋に印刷を施すようになってデザイン性が高まり、さらにビニールコーティングしたりアルミ箔を貼ることができるようになって茶葉の保存性が飛躍的に高まった。

■お茶は生産農家で蒸して、もみあげて、荒茶(あらちゃ)として問屋に納入される。問屋ではそれをグレードに分け、ブレンドして、お茶屋さんに卸す。その問屋の段階で、茶葉をアルミ箔貼りの袋に封入すれば、そのまま品質が保持される。お茶屋さんはそれを店頭に並べるだけでよい。

■このことがお茶の流通を変えると直感した正雄氏は、1972年、周囲の反対を押し切って巨額の投資を断行し、フィルムにグラビア印刷しアルミをラミネートした茶袋を製造する工場をお茶の産地、静岡に建てた。

■茶袋の生産力が飛躍的に高まり、それにあわせて、静岡・仙台・福岡に営業所を設置。それ以外の地域には代理店を置いて、東京圏だけだった得意先を全国に拡大した。高度成長の波に乗って会社は大きく成長し、吉村鰍ヘお茶の包材供給事業者のトップに上り詰めた。

取材先 吉村
取材 2016/10/05
掲載 リーダーシップ2016/12
本文 yoshimura.pdf へのリンク 

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【131204】 牛の薬品製造から動物医薬全体に進出する   

■日本全薬工業は乳牛や肉牛のための薬を開発製造し牛の飼育農家に提供してきたが、1991年の牛肉と乳製品の輸入自由化によって事業分野を、牛を中心とする畜産農家に限定することのリスクが高まった。

■そこで、2001年、ターゲットをペット市場、鶏薬などを含む全動物薬に広げる「新創業」を宣言。「ゼノアック(ZENOAQ)」という企業ブランドを掲げ、その使命を「動物が人間にもたらす恵みをゆたかにすること」とした。

■動物の種類ごとの事業部制を採用。地域ごとに分かれていた従来の営業担当を、乳牛・肉牛・豚・鶏・ペットに分け、営業担当がそれぞれに畜産農家・獣医師・動物病院を回わって、顧客との商談・問題解決・情報収集・関係構築に当たることにした。

■さらに、顧客本位・社員重視・独自能力・社会貢献のレベルアップをめざす経営品質向上活動を展開。幹部による車座対話、社員の価値観共有のために「クレド」の作成、それに基づく活動展開と朝礼での発表、CSR委員会による社会貢献活動、プロフェッショナル資格認定、コアコンピタス製品として「アレルミューンHDM」(犬のアトピー性皮膚炎減感作療法薬)の開発…などに力を入れている。

取材先 日本全薬工業
取材 2017/05/08
掲載 リーダーシップ2017/07
本文 zenoaq.pdf へのリンク 

 
↑畜産農家を訪問する営業担当(左)とZENOAQの動物薬
 
【131205】 商都・大阪に「紅忠」を出店する    


■総合商社、伊藤忠商事と丸紅の創業者、伊藤忠兵衛(18421903)は、近江で繊維製品を商う5代目伊藤長兵衛の次男として生まれた。家督は兄が継ぎ、忠兵衛自身は独力で持ち下り商いを展開し、防長2州と九州北部に販路を伸ばした。忠兵衛の利益は既に兄をしのいでいたが、兄、6代目伊藤長兵衛は互いの利益を折半することを提案。忠兵衛はそれを受け入れた。

1871(明治4)年、忠兵衛は、防長2州と九州北部の得意先をすべて兄にゆずることと交換に、自身が大阪に出店することの了承を取り付けた。

■明治維新は、300余州に分かれていたこの国を中央集権国家を生んだ。東京・横浜に鉄道が開通。瀬戸内海には汽船が通うようになり、人も物資も自由に往来できるようになった。もはや持ち下り商いの時代ではない。商都・大阪に店を構えてこそ、大きく発展できる。忠兵衛にはその確信があった。

1872(明治5)年、忠兵衛が大阪に出店した「紅忠」は、その後大きく発展し、今日の総合商社、伊藤忠商事と丸紅へとつながっていった。

取材先 伊藤忠兵衛記念館
取材 2019/08/23
掲載先 リーダーシップ2019/10
本文 itohchubeh.pdf へのリンク 

 ←当時の店員が着ていたハッピ
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