絵で見る創意くふう事典  》 第14章 社会  》 C使命感を持って事業創出する
 
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組織‐1404 C使命感を持って事業創出する BACK


 このページの掲載事例→                 ●140401 ファッションの魅力を追求し続ける  
 ●140402 運転とともに感謝の心を学ばせる
 ●140403 花文化を創造する  
 ●140404 1人でも多くの人の命を救う  
 ●140405 空を飛ぶ夢に生涯をかける  
 ●140406 農業をビジネスに変える  
 ●140407 経営者には社会に対して果たすべき役割がある 
 ●140408 石炭によって宇部のまちを発展させると誓う 
 ●140409 再び与えられた生命に恩返しする
 ●140410 世の中に何かを残す
 ●140411 利ハ勤ルニ於イテ真ナリ
 ●140412 飲食業の近代化を図る
 ●140413 生活必需品が安心して買える社会をつくろうと誓う
 
【140401】 ファッションの魅力を追求し続ける  


■クロスカンパニーの石川康晴社長は、14歳のときファッションの魅力にとりつかれてファッションビルに通い詰めた。「そんなに好きだったら、洋服屋をやればいいのに」アパレル店の店員からそう言われ、「ああそうか。自分はそのために生まれてきたのだ」と思うようになった。以来、自分の店を持ち経営者になることにすべてのエネルギーを注ぎ込んだ。

■社会人となり、紳士服販売会社に入った。右肩上がりの拡大戦略を支えるために昼も夜もなく働いた。3年後後し、上司から「店長にならないか」と言われたことがきっかけで、会社を辞め、岡山市内のビルで4坪の店を開いた。

■身の丈に合った堅実な商いをこころがけた。立地の悪い小さな店だったが、わざわざ足を運んでくれたお客様に、商品の付加価値だけでなく、店のイメージ、接客する自分自身の価値を感じてもらえるような接客を心がけた。

■ヨーロッパを歩き回り、自分で吟味して商品を仕入れ、この商品はフランスのデザイナーの作品で、その人はこんな経歴を持ち、こんな作品を作る人で、こんな素材が使われていて、こんな特徴がある。どんなものと組み合わせるとよいか…など、自分なりの知識とファッション観、ひとつひとつの商品への思い入れを熱く語った。

■それが顧客の心をとらえ、売上は順調に伸びた。8ヵ月後には自分1人では手が回らなくなり、人を雇い入れ、社会保険に加入するために個人事業を会社組織に改めた。

取材先 クロスカンパニー
取材 2008/04/30
掲載 ポジティブ2008/0
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki066.html

 ←クロスカンパニーの店舗
 
【140402】運転とともに感謝の心を学ばせる   


島根県のMランド益田校は合宿方式の自動車教習所で、普通車ATの場合で2週間滞在して運転を学ぶ。

■運転を学ぶためだけに2週間滞在してもらうのはもったいないとして、ここには宿泊施設、飲食施設、コンビニ、テニスコート、ゴルフ練習場、美術ギャラリーなどが備えられている。

■ここでの生活にはいくつかのルールがある。挨拶すること。「Mマネー」という地域通貨を使うこと。校内清掃、トイレ清掃、教習車の洗車などのボランティア活動をしたり、誰かに親切にされたときにサンキューレターを書いたり、改善提案を書けば「Mマネー」が貰え、それで様々なものやサービスを買うことができる。

■これらを通じて、運転技能だけでなく、交通安全、人へいたわりの気持ち、奉仕の心、感謝の心など、を学んでもらう。

取材先 Mランド益田校

取材  2010/10/29
掲載  リーダーシップ2011/01
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki109.html

 
↑Mランド内の挨拶と清掃奉仕 
 
【140403】花文化を創造する   


■花卉販売会社、ジャパン・フラワー・コーポレーションの社長、松村吉彰さんは、3歳とき交通事故で生死の境をさまよった。医者が見放すほどの重体で、水も受け付けなかった。このとき乳飲み子だった弟がいて、母親が張っていた乳を松村さんに含ませると、はじめてゴクンと飲み、奇跡的に命を長らえた。母と弟がいなかったら自分の命はなかった。この命を何に使うべきか、少年の頃からそのことを考えるようになった。
 

■高校卒業後、青果商での丁稚奉公を経て、自分で花屋を始め、それが軌道に乗って、会社は大きくなった。だが、あるとき、せっかく雇い入れた従業員が次々辞めていった。

■はじめての躓きに打ちひしがれていた時、奥さんが活けてくれた花を見て思った。
 

■従業員が辞めていったのは、自分の中に彼等を「手段」と見る心があったためだろう。花も金儲けの手段としてしか見ていなかった。しかし、花を見ていると心が癒され、自分の身勝手さに気づかされる、そんな気持ちを多くの人たちにに広げることこそ自分の仕事ではないか。 

■「花文化創造企業をめざす」という企業理念がこの体験から生まれた。そして、そのことを確かめるために国内外の花屋のトップに面会を求め、その人たちの体験から多くを学んだ。海外に目を向けると、日本の花流通がかなり遅れていることにも気づかされた。花を人々の生活の奥深くにまで浸透させるには、生産から販売まで自社で行なえる垂直モデルを作る必要があると思った。 

■胡蝶蘭生産拠点のグループ化、ベトナムの花の生産基地開拓、フラワースクールの開講、阪急阪神グループの「クリエィティブ阪急」の花事業部を買収…等を経て、同社は国内第3位の花卉販売会社に成長している。 

取材先 ジャパンフラワーコーポレーション
取材 2012/12/03
掲載 リーダーシップ2013/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki140.html

 
↑「花まつ」の店舗(左)とベトナムの花生産基地
 
 【140404】1人でも多くの人の命を救う  


東海メディカルプロダクツ(愛知県春日井市)の創業者、筒井宣政さんの娘さんには、生まれながらの重い心臓病があった。娘さんに手術を受けさせたいと筒井さんは必死に働いて、2000数百万円を貯め、そのお金で手術をしてほしいと、主治医に相談した。しかし、主治医は、娘さんの体力は手術には耐えらないといった。人工心臓を使うことも考えられたが、当時の人工心臓はまだ実用段階ではなかった。

■筒井さんは、そのお金で、奥さんと2人で人工心臓の開発に取り組み、8年をかけて動物実験まで成功させた。だが、実用化のためにはさらに100例の動物実験と人間を対象にした治験が必要で、そのためには莫大な資金が必要になり、とても1私企業でできる仕事ではないことがわかってきた。やむを得ず、開発の対象を、狭心症や心筋梗塞に陥った心臓の機能を一時的に回復させるIABPバルーンカテーテルに転換。それまでのアメリカ製品を改良したバルーンカテーテルの国産化に成功した。しかし、娘さんの心臓病に役立てることはできず、娘さんはしばらくして亡くなった。

亡くなる前、カテーテルが売れたと聞くたびに娘さんは「また1人の生命を救ったのね」と喜んでくれた。そのことから、筒井さんは東海メディカルプロダクツの企業目標を「1人でも多くの生命を救う」と定めた。バルーンカテーテルはその後、IABPのほか、腎臓透析患者用、腹部がん治療用、脳血管治療用などが開発され、海外にまで輸出されて、多くの人の生命を救うことに役立っている。

取材先 東海メディカルプロダクツ

取材 2016/11/02
掲載 リーダーシップ2017/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki187.html

 
↑IABPバルーンカテーテル国産第一号(左)とカテーテルの製造工程
 
【140405】 空を飛ぶ夢に生涯をかけろ  


■愛媛県八幡浜市の住人、二宮忠八(1866-1936)は、幼いころからトビウオやモミジのタネなど、空を飛ぶものに関心を持ち、様々な凧を自作した。長じて軍隊に入り。演習で弁当をとっているときに、カラスが残飯をめがけて滑空するのを見てゴム動力の「カラス型飛行機」をつくり、さらに玉虫が内羽根で飛ぶ方向を変えているのをみて「玉虫型飛行機」を作った。

■忠八は敵地を偵察のための軍用飛行機製作を何度も軍に上申した。しかし、提案はことごとく却下された。

■その後、軍を除隊して製薬会社に入社。やがてその会社の経営責任者となったが、勤めの傍らで、玉虫型飛行機の飛行実験を計画した。しかし、19031218日、アメリカのライト兄弟が自作の飛行機で空を飛んだというニュースを新聞報道で知る。最初に空を飛ぶのは自分でなければならなかった。失意のドン底に突き落とされた忠八は、自作の飛行機をすべて壊してしまったという。

■ライト兄弟よりも前にゴム動力で飛行機を飛ばした日本人がいたという話はやがて軍が知るところとなり、軍は忠八の上申を却下した不明を詫びた。その後、この話は国定教科書にも掲載されて国威発揚の一端を担った。

■忠八の自宅跡の京都府八幡市には、いま、空の安全を守る神として「飛行神社」が建っている。

取材先 飛行神社
取材 2017/08/09
掲載 リーダーシップ2017/09
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki195.html

 
↑玉虫型飛行機(左)と飛行神社 
 
【140406】 農業をビジネスに変える   


■ビジネスはお客様に満足を提供するところに成立する。「ありがとう」という言葉が満足の証である。しかし、自分で育てた野菜を農協に出荷しても、農協では受け取りの伝票が渡されるだけで「ありがとう」の言葉はない。そこにビジネスの基本がないことに、及川智正さんは当惑した。

■そこで、作った野菜を、農協を通さず直接スーパーに持ち込んだ。朝収穫したばかりの新鮮さが評価され、多くのお客さんが買ってくれた。知り合いの農家にも声をかけ、様々な農産物を直接出荷し、お客様から求められる野菜を提供すれば「ありがとう」と言って貰えることを確認した。

■その後、自ら八百屋を開店して野菜の販売を経験。次いで、生産と販売の双方をコーディネートすることをめざし農業総合研究所を立ち上げ「農家の直売所」の看板を掲げた。

中古の軽バンを手に入れて農家からミカンを仕入れ、それを百貨店や高級スーパーに持ち込んで委託販売する。これが軌道にのり、現在この事業に参加登録している農家は7000人。「農家の直売所」
を設置するスーパーは全国に1000店舗に上る。

取材先 農業総合研究所
取材 2017/10/02
掲載 リーダーシップ2017/12
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki198.html

 
↑農家の直売所の売り場(左)と集荷場
 
【140407】 経営者には社会に対して果たすべき役割がある   
 

■マッサージチェアの専業メーカー、ファミリーイナダは、1990年当時、エステサロン、痩身教室、ウエイトトレーニング製品製造販売など、事業の多角化を積極的に推進していて、売上に占めるマッサージチェアの割合は20%、それ以外の事業が80%に達していた。

■しかし、稲田二千武社長が師と仰ぐ稲森和夫氏から、「経営者には、社会に対して果たすべき役割がある」という言葉を聞き、儲かるなら何でもやって会社を大きくするというのが、果たして正しいことなのか、自分の社会的役割はマッサージチェアの可能性を極め、世のため人のために尽くすことではないかと思い直したという。

■そして、多角化事業をすべて売却。改めてマッサージチェアの可能性を追求し、マッサージチェアという日本の文化を世界に広げ、世界の人々の健康に貢献することに全エネルギーを注いだ。

■現在、同社は予防医学の考え方を取り入れ、脳波・歩数・距離・カロリー・睡眠状態を計測するアクティブメジャーと組み合わせたマッサージチェアによる健康管理システムの開発に力を注いでいる。

取材先 ファミリーイナダ
取材 2017/11/27
掲載 リーダーシップ2018/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki199.html

 
↑初期のマッサージチェア(左)と最近のマッサージチェア
 
【140408】 石炭によって宇部のまちを発展させると誓う    


■長州藩厚狭郡宇部の渡辺祐策(1864-1934)は士分に属する家柄だったが、祖父の代に集落を焼き尽くす火事を出して財産を失い、14歳で父を亡くして進学を断念して田畑を耕して家族を支え、20歳で戸長役場用係となった。

■宇部の沿岸部から石炭が出て、地表付近の石炭は容易に取り出すことができ、住民は昔からそれを煮炊きに使っていた。祐策は25歳で石炭の採掘権を買って炭鉱経営を始めたが、良質の石炭に行き当たらず、経営の継続が困難になって閉山するということを2度繰り返した。その後、自宅を田畑に変え、それを耕し、妻はマキ用の松葉を拾って売るという生活をしながら、3度目の探鉱事業を起こすために、役場や知人の間を奔走して資金を集めた。「2度も失敗してまだ懲りんのか」と言われ、「いや、石炭は宇部の宝だ。このまちは必ず石炭によって発展する。必ず成功させてみせる」と答えたといわれる。

■こうして資金を集め1897年に沖の山炭鉱を創業。最初に出た石炭は質の悪いもので、落盤事故で犠牲者も出た。さらに借金を重ね、新株を発行して出資者を募って事業を継続し、4年を経てようやく良質の石炭層まで掘り進め、その後、石炭産出量は飛躍的に伸びた。

■他地域の石炭王が豪邸を立て、贅の限りを尽くしたのに比べると、祐策の生活は質素で、1912年から衆議院議員になったこともあって、地域の発展に尽力し、石炭による利益のほとんどを、火力発電所建設、鉄道の敷設、上水道の敷設、宇部港の築港、学校や病院の建設…など、宇部のまちのインフラ整備に投入している。

取材先 宇部市ふるさとコンパニオンの会
取材 2018/12/14
掲載先 リーダーシップ2019/02
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki212.html 

 
↑宇部新川駅前の渡辺翁記念会館(左)と渡辺祐策翁銅像
 
 【140409】 再び与えられた生命に恩返しする    
 

■義肢装具製作会社、中村ブレイスの創業者、中村俊郎氏は、アメリカに渡って欧米流の義肢装具づくりを学んだ。その中で、患者の痛みや苦しみへの共感を深め、この仕事を通じてこの人たちを支えたいと考えるようになった。

■そんなとき、大きな交通事故に遭遇。自転車で走行中に車に当て逃げされ、もはや手の施しようがないと医師から見放されて、霊安室に安置されているときに、意識が戻り、奇跡の生還を果たした。

■一度失った生命を再び与えられた。その恩返しをしたいという思いから、残された自分の人生を仕事と周りの人たちへの感謝にささげたいと考えるようになったという。

取材先 中村ブレイス
取材 2019/04/24
掲載先 リーダーシップ2019/07
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki217.html 

 ←中村ブレイス本社
 
 【140410】 世の中に何かを残す     
 

■自動車リサイクル事業をグローバルに展開する会宝産業の創業者、近藤典彦さんは、創業当初の自動車解体作業は劣悪な3K職場で、環境への配慮も、安全への配慮も、お粗末なものだったという。

■あるとき、フォークリフトで持ち上げた解体車が傾いて、従業員がガソリンを浴び、引火して大火傷を負った。駆け付けた彼の父に、近藤さんは土下座して「とんでもないことをしてしまいました。今日限りこの仕事を辞めます」と言うと彼の父は「どうぞ頭を上げてください。辞めるなんて言わないでください」と言ってくれた。以来、どんなことがあっても従業員は守らねば…と強く思うようになった。

■後にある僧の説法を聞き、人はいつか死ぬ。死ねばすべてが無くなる。しかし、その一方で、1人の人間は万人とつながっていて、多くの人から影響を受け、多くの人に影響を与えている。そう考えると、自分の人生は自分のものではない。自分がどれだけいい思いをしたかではなく、周りの人をどれだけ幸せにしたかが人生のすべてだろう、と考えるようになった。

■そして、自動車リサイクルの仕事で何かを残すことが自分の使命であり、そのためにもっと身を正さなければと思うようになった。以来、酒、たばこ、ゴルフ、麻雀…を断っているという。

取材先 会宝産業
取材 2019/07/29
掲載先 リーダーシップ2019/09
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki219.html

 
自動車リサイクル作業風景(左)と倉庫内の中古エンジン
 
【140411】 利ハ勤ルニ於イテ真ナリ   

■「三方よし」すなわち「売り手よし、買い手よし、世間よし」は近江商人の商いの基本的な考え方と言われる。総合商社、伊藤忠商事と丸紅の創業者、伊藤忠兵衛はこれを、「利真於勤(利ハ勤ムルニ於イテ真ナリ)」という言葉で表現している。「真の利益は、お客様のために働き、世の中に貢献するという商人の務めを果たした結果として、手にするものでなければならない」という意味である。

■忠兵衛は浄土真宗の熱心な門徒で「商売は菩薩の業(わざ)」とも言った。「商売道の尊さは売り買いいずれも益し、世の中の不足をうずめ、御仏の心にかなうものである」という意味である。

取材先 伊藤忠兵衛記念館
取材 2019/08/23
掲載先 リーダーシップ2019/10
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki220.html

←伊藤忠商事制作の「利真於勤」のポスター 
 
 【140412】 飲食業の近代化を図る  


■がんこフードサービスの創業者の小嶋淳司会長は、15歳の時、商売を一生の仕事にしようと決めたという。大学時代には、起業するときは飲食業で起業しようと考えるようになった。飲食業なら小資本で起業できるというのが1番の理由だが、2つ目の理由は、「水商売」と言われるほど不安定で、産業基盤の脆弱な業界であり、そうであればなおさら自分なりの仕事を残せるのではないかと考えたからだった。

28歳で大阪の十三(じゅうそう)で4.5坪の小さな寿司店を開店。1年後に4階建てで床面積120坪、106席の大阪で最も大きい寿司店を開店した。当初はあくまで小嶋さんがお手本で、社員たちには自分がする通りに、寿司を握らせ、接客させていたが、やがて社員に任せる方法を工夫するようになった。

■それまでの飲食業は社員の能力が高まるとのれん分けし独立させた。しかし、基本的な理念を一致させた上で、どこまでも社員の能力を高め、それと並行して多店舗展開を図ったことで、全員の能力を生かし、さらに上を目指すことが可能になった。

■同社は、この方法で、現在、関西を中心に80店舗を展開。3500人を擁する大企業に発展している。

取材先 がんこフードサービス
取材 2020/06/19
掲載 リーダーシップ2020/08
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki230

 ←「がんこ」の看板
 
 【140413】 生活必需品が安心して買える社会をつくろうと誓う   


■スーパーマーケット・ダイエーの創業者、中内功(19222005)は、戦時中のフィリピンでの米軍との戦闘で瀕死の重傷を負い、その痛みと飢えにさいなまれながら逃避行を続ける中で、一家6人ですき焼きを食べている夢を見たという。

■戦後になって、家業の薬局を再開し、薬を販売し、やがて食品、日用品などを販売。流通革命を推進して全国にチェーン店を展開したが、中内は後に、自分の意識の根底には、戦争中の悲惨な体験があり、あのときの食べ物への執念と悲惨な戦争を遂行させた精神主義への反発が骨の髄までしみ込んでいたといい、日々の生活必需品が安心して買える社会をつくることを戦死した人々に誓っていたという。

取材先 中内功記念館
取材 2020/08/07
掲載 リーダーシップ2020/10
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki232

 ←流通科学大学の中内功銅像
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